どんな真実も、発見してしまえば誰でも簡単に理解できる。大切なのは、発見することなのだ。
イタリアの物理学者、天文学者、哲学者。
「その人間から何かを学ぶことが出来ないほど愚かな人間に、私はあったことはない。 」 「数学は神が宇宙を書くためのアルファベットだ。」 パドヴァ大学の教授となり数学を教える。 その傍ら、自ら制作した望遠鏡を用いて天体を観測し、 「木星の4つの衛星」「金星の公転と満ち欠け」「太陽の黒点」「月面の凹凸」などを発見し、 コペルニクスの地動説を証明。 このためローマの異端審問所に召喚され宗教裁判にかけられ、 地動説に関する一切の著述・講義を禁止されてしまう。 69才という年齢に達していたガリレオは地動説を唱えることを放棄させられた。 判決の際「それでも地球は動く」と言ったのは有名である。 著書:『太陽黒点論』、『星界の報告』など。
悔いるよりも今日直ちに決意して、仕事を始め技術を ためすべきである。何も着手に年齢の早い晩いは問題にならない。
日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者、地域研究家。 Shoin Yoshida(吉田 松陰) 1830年-1859年 「人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。」 松下村塾を主宰し、幕末・維新に活躍した多数の志士達を輩出した。 一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。 安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、 討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画するが、 弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)ら は反対して同調しなかったため、 計画は頓挫した。 やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、松陰は尋問に際し 老中暗殺計画の詳細を自供し、 自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。 こ れが井伊の逆鱗に触れ、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。 享年30(満29歳没)。 著書:『幽囚録』、『留魂録』など。
自分の実力が不十分であることを知ることが、自分の実力を充実させる。
司教・証聖者・教会博士(カトリック)。 Aurelius Augustinus(アウレリウス・アウグスティヌス) 354年-430年 「世界は一冊の本にして、旅せざる人々は本を一頁しか読まざるなり。」 古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者、ラテン教父とよばれる 一群の神学者たちの一人。 古代キリスト教世界のラテン語圏において最大の影響力をもつ理論家。 キリスト教徒の母モニカ(聖人)と異教徒の父パトリキウスの子として、 北アフリカのタガステに生まれた。 ミラノの司教アンブロジウスおよび母モニカの影響によって、 387年に息子アデオダトゥスとともに洗礼を受け、 キリスト教徒となった。 387年、母モニカがオスティアで没した後、アフリカに帰り、 息子や仲間と共に一種の修道院生活を行ったが、 この時に彼が定めた規則は 「アウグスティヌスの戒則」と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなった。 391年、北アフリカの都市ヒッポ教会の司祭に、 更に396年には司教に選出されたため、 その時初めて聖職者としての叙階を受けた。 著:「告白」、「三位一体論」、「神の国」など。
人間の最も偉大な力とは、その一番の弱点を 克服したところから生まれてくるものである。
スイスの法学者、哲学者、政治家。 Carl Hilty(カール・ヒルティ) 1833年 - 1909年 「寝床につくときに、翌朝起きることを楽しみにしている人は幸福である。」 1833年、スイスのヴェルデンベルクに生まれる。 ヒルティの代表作品は宗教的倫理的著作である。 作品はすべて一貫したキリスト教信仰の精神に基づく。 彼が最も愛読して感化を受けた書物は聖書であり、聖書の言葉を大変重んじている。 キリスト教信仰による生活が最良のものとしながらも、 他宗教に関しての知識も深くもっている。 ヒルティの思想で指摘されることとして、キリストの死によって罪が赦されたという 贖罪意識が薄いということ、社会主義や唯物論に否定的であることが挙げられる。 また、時代背景の影響もあり、未開の民族を野蛮民族と表現したり、 救いをもたらすのはキリスト教だけで、他の宗教では無理であるといった 西洋中心主義的傾向が強いことも挙げられる。 著「眠られぬ夜のために」 「幸福論」 など。
人を偉大な事業に向かわせるのは、情熱、しかも燃え盛る情熱だけだ。
フランスの啓蒙思想家・作家。 Denis Diderot(ドゥニ・ディドロ) 1713-1784年 「けっして後悔せず、けっして他人を咎めるな。これらは英知の第一歩である。」 1713年、シャンパーニュのラングルに生まれ育つ。 18世紀を代表する出版物『百科全書』の編纂・刊行者である。 当時の先端の技術や科学思想を紹介しながら、社会・宗教・哲学等の批判を行ったため、 『百科全書』を刊行すること自体が宗教界や特権階級から危険視される。 たびたびの出版弾圧、執筆者の離散を跳ね返し、フランス革命(1789-1794年)を 思想的に準備したとも言われている『百科全書』(1751年-1772年)の完結という 大事業を成し遂げる。 他の著作活動も活発に行うようになったが、その大半は出版せず、 雑誌に寄稿したり知人に回覧させるだけだった。 このため、生前は、こうしたさまざまの分野での活動はほとんど知られず、 もっぱら『百科全書』編集者として遇されていた。 またグリムの「文芸通信」に断続的に掲載されたサロン展の批評によって 近代的美術批評の祖ともされている。 著「盲人に関する手紙(盲人書簡) Lettre sur les aveugles」 「修道女 La Religieuse」「ラモーの甥 Neveu de Rameau」など。
君が偉大な才能を持っているならば、勤勉がそれに磨きをかけるだろう。 君が普通の才能しか持っていないならば、勤勉がその不足を補うだろう。
イギリス 画家 Sir Joshua Reynolds (ジョシュア・レノルズ) 1723-1792年 「人間の真の性格は、彼の娯楽によって知られる」 1723年、イングランド南東部デヴォン州のプリンプトンに生まれる。 1749年から1752年にかけてイタリアに学び、ラファエッロやミケランジェロなどの 古典を熱心に研究した。 1768年にロイヤル・アカデミーが創設されるとその初代会長となり、 実作のみならず絵画の理論家・教育者としても大きな役割を果たした。 レノルズは、ラファエッロのような古典絵画の巨匠の様式(グランド・マナー)を重視し、 聖人・神話・歴史上の事件などを扱った「歴史画」を絵画ジャンルの首位に置いた。 肖像画の制作にあたってもモデルを宗教的・歴史的道具立てのなかで 理想化して描いた。 作品「マスター・ヘア」「ネリー・オブライエン」など。
私達は物を生産するだけの為に働くのではなく 時間の価値を見いだす為に働いているのだ。
フランス 画家 Ferdinand Victor Eugene Delacroix (フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ) 1798-1863年 「君の健康を回復するためには、薬も療法も君に必要ではないのだ。 もっとも簡単に暮らすことがいちばんよい方法かもしれない。 少し食べ、少し飲み、そして早くから休むことだ。これは世界的な万能薬だ。」 1798年、パリ近郊のシャラントンに生まれた。 父は外交官シャルル・ドラクロワだが、実の父親はナポレオン帝政下などで 外務大臣を務め、ウィーン会議のフランス代表として知られる シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールだといわれている。 苗字を分解するとde la croixで、「信仰(信条)に生きる者」を意味する。 1822年に始まり、ジュール・ヴェルヌと共にノートが失われて 1824年に中断、1832年に再開され、1863年の彼の死まで続いた。 このドラクロワの個人的な日記は、この画家の文字通りの傑作である。 そこには絵画、詩、音楽についての考えが書き留められている。 そこにはジョルジュ・サンド、 ショパン、 シャブリエ等との議論が記録されている。 それは単に画家の生活や彼の不安についてにとどまらず、 19世紀半ばのパリジャンの生活の日々の証言になっている。 1832年、フランス政府の外交使節に随行する記録画家としてモロッコを訪問した。 1834年の『アルジェの女たち』は、モロッコ旅行の際のデッサンをもとに 制作したものである。 1830年代以降は、リュクサンブール宮、パリ市庁舎など、 政府関係の大建築の装飾を数多く手掛け、1863年に死去するまで旺盛に制作を続けた。 著「民衆を導く自由の女神」「ダンテの小船」など。
金を稼がんとせば、金を使わねばならぬ。
ローマ 喜劇作家 Titus Maccius Plautus (ティトゥス・マッキウス・プラウトゥス). 紀元前254年-紀元前184年 「十人の聞きしことよりも一人の目撃のほうが価値あり。 」 メナンドロスらギリシア新喜劇を自由に翻案して,ローマ風に改作し, 民衆の活発な言葉を用い,機知・駄洒落(だじゃれ), 複雑巧妙な筋運び,唐突な展開などを得意とした人物。 著「ローマ喜劇」など。
勝利は苦戦のあとに来る。
フランス 政治家 Georges Clemenceau (ジョルジュ・クレマンソー) . 1841年-1929年 「平和を手に入れるより、戦争を始める方がはるかに易しい。 」 南北戦争中のアメリカに留学。同時にフランスの新聞の特派員を勤めた人物。 ドイツの分割政策に反対。フェルディナン・フォッシュ元帥と対立して訴訟合戦となった。 「ドイツの方角を睨んだまま、立った姿勢で埋葬してもらいたい」と遺言し、その通りに葬られた。
労働をなさざる人に真性の快楽は決して与へられず。
日本 小説家 Takeo Arisima (有島 武郎).1878-1923 「愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだ。」 志賀直哉や武者小路実篤らとともに「白樺派」の中心を担った人物。 ハーバード大学でホイットマンやイプセンらの社会主義に傾倒。 また、西欧文学、ベルクソン、ニーチェなどの西洋哲学の影響を受けた。 同人誌「白樺」に参加し。「かんかん虫」「お末の死」などを発表。 後、「或る女」を発表。 婦人公論記者で人妻であった女性と軽井沢の別荘で心中。 著「生まれ出づる悩み」「迷路」など。
世の中に成功の秘訣なるものがあるとすれば それはよく他人の心の中に入り 他人の立場から物事を扱うことができる才能にほかならない。
力不足だからこれはできないと思ってはいけない。 真心がその不足を補ってくれる。
顧客に求められたら決してノーと言ってはいけない。 相手が月をほしがったとしてもだ。 とにかくやってみる余地はある。 いずれにしても、ダメだったあとで 説明する時間はたっぷりある。