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一言 gallery 仕事

一言ギャラリー

どんな真実も、発見してしまえば誰でも簡単に理解できる。大切なのは、発見することなのだ。

イタリアの物理学者、天文学者、哲学者。

Galileo Galilei(ガリレオ・ガリレイ)
1564年-1642年

「その人間から何かを学ぶことが出来ないほど愚かな人間に、私はあったことはない。 」

「数学は神が宇宙を書くためのアルファベットだ。」
パドヴァ大学の教授となり数学を教える。

その傍ら、自ら制作した望遠鏡を用いて天体を観測し、
「木星の4つの衛星」「金星の公転と満ち欠け」「太陽の黒点」「月面の凹凸」などを発見し、
コペルニクスの地動説を証明。

このためローマの異端審問所に召喚され宗教裁判にかけられ、
地動説に関する一切の著述・講義を禁止されてしまう。
69才という年齢に達していたガリレオは地動説を唱えることを放棄させられた。
判決の際「それでも地球は動く」と言ったのは有名である。

著書:『太陽黒点論』、『星界の報告』など。

仕事 愛 人間 人生

悔いるよりも今日直ちに決意して、仕事を始め技術を
ためすべきである。何も着手に年齢の早い晩いは問題にならない。


日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者、地域研究家。

Shoin Yoshida(吉田 松陰)
1830年-1859年


「人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。」

松下村塾を主宰し、幕末・維新に活躍した多数の志士達を輩出した。
一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、
討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画するが、
弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)ら は反対して同調しなかったため、
計画は頓挫した。

やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、松陰は尋問に際し
老中暗殺計画の詳細を自供し、 自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。

こ れが井伊の逆鱗に触れ、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。

享年30(満29歳没)。 著書:『幽囚録』、『留魂録』など。

自分の実力が不十分であることを知ることが、自分の実力を充実させる。


司教・証聖者・教会博士(カトリック)。

Aurelius Augustinus(アウレリウス・アウグスティヌス)
354年-430年


「世界は一冊の本にして、旅せざる人々は本を一頁しか読まざるなり。」

古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者、ラテン教父とよばれる
一群の神学者たちの一人。

古代キリスト教世界のラテン語圏において最大の影響力をもつ理論家。
キリスト教徒の母モニカ(聖人)と異教徒の父パトリキウスの子として、
北アフリカのタガステに生まれた。

ミラノの司教アンブロジウスおよび母モニカの影響によって、
387年に息子アデオダトゥスとともに洗礼を受け、 キリスト教徒となった。

387年、母モニカがオスティアで没した後、アフリカに帰り、
息子や仲間と共に一種の修道院生活を行ったが、 この時に彼が定めた規則は
「アウグスティヌスの戒則」と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなった。

391年、北アフリカの都市ヒッポ教会の司祭に、
更に396年には司教に選出されたため、 その時初めて聖職者としての叙階を受けた。

著:「告白」、「三位一体論」、「神の国」など。

人間の最も偉大な力とは、その一番の弱点を
克服したところから生まれてくるものである。


スイスの法学者、哲学者、政治家。

Carl Hilty(カール・ヒルティ)
1833年 - 1909年


「寝床につくときに、翌朝起きることを楽しみにしている人は幸福である。」

1833年、スイスのヴェルデンベルクに生まれる。
ヒルティの代表作品は宗教的倫理的著作である。
作品はすべて一貫したキリスト教信仰の精神に基づく。

彼が最も愛読して感化を受けた書物は聖書であり、聖書の言葉を大変重んじている。
キリスト教信仰による生活が最良のものとしながらも、
他宗教に関しての知識も深くもっている。

ヒルティの思想で指摘されることとして、キリストの死によって罪が赦されたという
贖罪意識が薄いということ、社会主義や唯物論に否定的であることが挙げられる。

また、時代背景の影響もあり、未開の民族を野蛮民族と表現したり、
救いをもたらすのはキリスト教だけで、他の宗教では無理であるといった
西洋中心主義的傾向が強いことも挙げられる。

著「眠られぬ夜のために」 「幸福論」  など。

人を偉大な事業に向かわせるのは、

情熱、しかも燃え盛る情熱だけだ。

フランスの啓蒙思想家・作家。
Denis Diderot(ドゥニ・ディドロ)
1713-1784年


「けっして後悔せず、けっして他人を咎めるな。これらは英知の第一歩である。」

1713年、シャンパーニュのラングルに生まれ育つ。
18世紀を代表する出版物『百科全書』の編纂・刊行者である。
当時の先端の技術や科学思想を紹介しながら、社会・宗教・哲学等の批判を行ったため、
『百科全書』を刊行すること自体が宗教界や特権階級から危険視される。

たびたびの出版弾圧、執筆者の離散を跳ね返し、フランス革命(1789-1794年)を
思想的に準備したとも言われている『百科全書』(1751年-1772年)の完結という
大事業を成し遂げる。

他の著作活動も活発に行うようになったが、その大半は出版せず、
雑誌に寄稿したり知人に回覧させるだけだった。
このため、生前は、こうしたさまざまの分野での活動はほとんど知られず、
もっぱら『百科全書』編集者として遇されていた。

またグリムの「文芸通信」に断続的に掲載されたサロン展の批評によって
近代的美術批評の祖ともされている。

著「盲人に関する手紙(盲人書簡) Lettre sur les aveugles」
  「修道女 La Religieuse」「ラモーの甥  Neveu de Rameau」など。

君が偉大な才能を持っているならば、勤勉がそれに磨きをかけるだろう。
君が普通の才能しか持っていないならば、勤勉がその不足を補うだろう。


イギリス 画家

Sir Joshua Reynolds (ジョシュア・レノルズ)
1723-1792年


「人間の真の性格は、彼の娯楽によって知られる」

1723年、イングランド南東部デヴォン州のプリンプトンに生まれる。
1749年から1752年にかけてイタリアに学び、ラファエッロやミケランジェロなどの
古典を熱心に研究した。

1768年にロイヤル・アカデミーが創設されるとその初代会長となり、
実作のみならず絵画の理論家・教育者としても大きな役割を果たした。

レノルズは、ラファエッロのような古典絵画の巨匠の様式(グランド・マナー)を重視し、
聖人・神話・歴史上の事件などを扱った「歴史画」を絵画ジャンルの首位に置いた。

肖像画の制作にあたってもモデルを宗教的・歴史的道具立てのなかで
理想化して描いた。

作品「マスター・ヘア」「ネリー・オブライエン」など。

私達は物を生産するだけの為に働くのではなく
時間の価値を見いだす為に働いているのだ。


フランス 画家

Ferdinand Victor Eugene Delacroix
(フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ)
1798-1863年


「君の健康を回復するためには、薬も療法も君に必要ではないのだ。
もっとも簡単に暮らすことがいちばんよい方法かもしれない。
少し食べ、少し飲み、そして早くから休むことだ。これは世界的な万能薬だ。」

1798年、パリ近郊のシャラントンに生まれた。
父は外交官シャルル・ドラクロワだが、実の父親はナポレオン帝政下などで
外務大臣を務め、ウィーン会議のフランス代表として知られる
シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールだといわれている。

苗字を分解するとde la croixで、「信仰(信条)に生きる者」を意味する。

1822年に始まり、ジュール・ヴェルヌと共にノートが失われて
1824年に中断、1832年に再開され、1863年の彼の死まで続いた。
このドラクロワの個人的な日記は、この画家の文字通りの傑作である。

そこには絵画、詩、音楽についての考えが書き留められている。
そこにはジョルジュ・サンド、 ショパン、 シャブリエ等との議論が記録されている。

それは単に画家の生活や彼の不安についてにとどまらず、
19世紀半ばのパリジャンの生活の日々の証言になっている。

1832年、フランス政府の外交使節に随行する記録画家としてモロッコを訪問した。
1834年の『アルジェの女たち』は、モロッコ旅行の際のデッサンをもとに
制作したものである。

1830年代以降は、リュクサンブール宮、パリ市庁舎など、
政府関係の大建築の装飾を数多く手掛け、1863年に死去するまで旺盛に制作を続けた。

著「民衆を導く自由の女神」「ダンテの小船」など。

金を稼がんとせば、金を使わねばならぬ。


ローマ 喜劇作家

Titus Maccius Plautus (ティトゥス・マッキウス・プラウトゥス).
紀元前254年-紀元前184年


「十人の聞きしことよりも一人の目撃のほうが価値あり。 」

メナンドロスらギリシア新喜劇を自由に翻案して,ローマ風に改作し,
民衆の活発な言葉を用い,機知・駄洒落(だじゃれ),
複雑巧妙な筋運び,唐突な展開などを得意とした人物。

著「ローマ喜劇」など。

勝利は苦戦のあとに来る。


フランス 政治家

Georges Clemenceau (ジョルジュ・クレマンソー) .
1841年-1929年


「平和を手に入れるより、戦争を始める方がはるかに易しい。 」

南北戦争中のアメリカに留学。同時にフランスの新聞の特派員を勤めた人物。

ドイツの分割政策に反対。フェルディナン・フォッシュ元帥と対立して訴訟合戦となった。

「ドイツの方角を睨んだまま、立った姿勢で埋葬してもらいたい」と遺言し、その通りに葬られた。

労働をなさざる人に真性の快楽は決して与へられず。


日本 小説家

Takeo Arisima (有島 武郎).1878-1923

「愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだ。」

志賀直哉や武者小路実篤らとともに「白樺派」の中心を担った人物。

ハーバード大学でホイットマンやイプセンらの社会主義に傾倒。
また、西欧文学、ベルクソン、ニーチェなどの西洋哲学の影響を受けた。

同人誌「白樺」に参加し。「かんかん虫」「お末の死」などを発表。
後、「或る女」を発表。
婦人公論記者で人妻であった女性と軽井沢の別荘で心中。

著「生まれ出づる悩み」「迷路」など。

世の中に成功の秘訣なるものがあるとすれば
それはよく他人の心の中に入り
他人の立場から物事を扱うことができる才能にほかならない。


アメリカ 企業家(フォード・モーターの創設者)

Henry Ford (ヘンリー・フォード).1863-1947

「自分で薪を割れ、二重に温まる。」

自動車会社フォード・モーターの創設者。
工業製品の製造における大量生産の方式を開発し、
自動車を大衆に普及させることに貢献した。

カール・ベンツが自動車の産みの親であるなら、自動車の育ての親は
ヘンリー・フォードであると言われている。
トーマス・アルヴァ・エジソンとは、友人関係にあった。
逸話として、1929年にエジソンの白熱電灯発明50周年の記念祭を
ヘンリーが主催。

電球発明時のメンローパークの研究所を建物からすべて再現し、
82歳のエジソンを感動させた。

力不足だからこれはできないと思ってはいけない。

真心がその不足を補ってくれる。


日本 政治家

Yozan Uesugi (上杉鷹山)
1751-1822年


「してみせて 言って聞かせて させてみる。」

出羽国米沢藩の第9代藩主であった人物。

前藩主の怠惰により領地返上寸前になった米沢藩の、
再生のきっかけを作りだした。
江戸時代屈指の名君として知られている。

アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディや第42代ビル・クリントンが、
日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として彼を挙げている。

顧客に求められたら決してノーと言ってはいけない。
相手が月をほしがったとしてもだ。
とにかくやってみる余地はある。
いずれにしても、ダメだったあとで 説明する時間はたっぷりある。


スイス 実業家(ザ・リッツ・カールトングループの創設者)

Cesar Ritz (セザール・リッツ).1850-1918

「ここを我が家と思ってください。」

ホテルリッツ(パリ)とカールトンホテル(ロンドン)の経営で大成功を収めた人物。
ホテル王"king of hoteliers, and hotelier to kings"と呼ばれていた。
飼いの家庭に生まれる。

15歳でウエイターになったのを皮切りに、多くの一流ホテルの現場で
キャリアを積んだ。 顧客のニーズを細かくキャッチし
確実に実現させることに力を入れ、サヴォイ・ホテルで支配人を務めた後、
独立し1898年パリにホテル・リッツを創業。

ある事を真剣に3時間考えて、 自分の結論が正しいと思ったら
3年かかって考えてみたところでその結論は変わらないだろう。

アメリカ 第32代大統領

Franklin Delano Roosevelt (フランクリン・デラノ・ルーズベルト).1913-1994

第37代アメリカ合衆国大統領であった人物。
任期中に世界恐慌と第二次世界大戦を経験し、
20世紀の国際政治における中心的人物の一人。

米国史上唯一の4選された大統領であり、重度の身体障害も抱えていた。

チャレンジして失敗することを恐れるよりも、
何もしないことを恐れろ。

日本 実業家・技術者(本田技研工業の創業者)

Honda Souichirou (本田宗一郎).1906-1991

「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。
要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない。」

日本を代表する起業家であり技術者。本田技研工業創始者。
ソニーの井深大などと並んで、戦後日本を代表する
技術者・起業家として世界的に有名。

1946年に浜松市に本田技術研究所設立し、所長に就任。
1948年に本田技研工業株式会社を設立し、代表取締役就任。
翌年、後にホンダの副社長となる藤沢武夫と出会う。
経営面を任せ、二人でホンダを世界的大企業に育て上げた。

逸話として、勲一等瑞宝章受賞授賞式の際に、
「技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ」と言い、
その服装で出席しようとした。

しかし、周囲から止められ、礼服で出席することとなった。

心に残るのは、千の忠告より一つの行為だ。

ノルウェー 劇作家

Henrik Ibsen (ヘンリク・イプセン).1769-1821

「人間は自分の現在と未来によってしか、自分の過去を償うことが出来ない。」

強い個人主義に立ち、婦人問題・社会問題を取り上げた
散文劇によって、後世の演劇に多大なる影響を与えた人物。

著「人形の家」「民衆の敵」「野鴨」など。

仕事は自分で探して、創り出すものだ。
与えられた仕事だけをやるのは、雑兵だ。

日本 戦国大名

Nobunaga Oda (織田信長).1534-1582

「是非に及ばず。」

戦国時代から安土桃山時代の大名。
古渡城主の織田信秀の二男(三男という説もある)として生まれる。

父の死後、織田信行との家督争いに勝利し織田家を継ぐ。
その後、かの有名は桶狭間の戦いを制し、今川家を破った。

破竹の勢いで上洛を果たし、信長包囲網なるものにも屈せず
天下布武を推し進めていった。

しかし、最後は家臣の明智光秀の謀略によって本能寺で自害した。

プロジェクトを組むときに大切なことは二つ。
“キーマン”を見つける。
そしてその人がやる気になるよう“説得”する。
それができれば、目的は半ば達成したようなもの。

日本 起業家(ソニー創始者の一人)

Masaru Ibuka (井深 大).1908-1997

「小さい会社を作って、またいろいろチャレンジしたいね。」

逝去直前の言葉 日本を代表する企業家。ソニー創始者の一人。

生前の盟友であった本田技研工業の本田宗一郎と
並び称される戦後日本を代表する起業家として世界的にも有名な人物。

1946年に資本金19万円で義父が社長・井深が
専務(技術担当)・盛田昭夫が常務(営業担当)として
東京通信工業(後のソニー)を創業。

新しい独自技術の開発にチャレンジし、
テープレコーダー・トランジスタラジオ・など数々の
日本初・世界初を生み出してきた。

SONYの由来
音『SONIC』の語源となったラテン語の『SONUS (ソヌス)』と
小さいとか坊やという意味の『SONNY』から来ている。

簡単な名前で、どこの国の言葉でもだいたい同じように読めて、
発音できることが大事という思想のもと考案された。

ディズニーランドはいつまでも未完成である。
現状維持では、後退するばかりである。

アメリカ 漫画家・アニメ製作者・映画監督・実業家

Walt Disney(ウォルト・ディズニー).1901-1966

「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。
そんな夢の世界を創りたい。」

世界的に有名なアニメーションキャラクター“ミッキーマウス”の生みの親。
世界初の長編アニメ「白雪姫」を手がけ、以後のアニメーションの芸術的、
興行的部分において多大なる影響を与えた。

大の鉄道マニアの一面があり、彼が創った夢の国“ディズニーランド”には
必ず鉄道が走っている。

作品「蒸気船ウィリー(ミッキー・マウス初主演作)」「白雪姫」「シンデレラ」など。