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一言 gallery 人間

一言ギャラリー

どんな真実も、発見してしまえば誰でも簡単に理解できる。大切なのは、発見することなのだ。

イタリアの物理学者、天文学者、哲学者。

Galileo Galilei(ガリレオ・ガリレイ)
1564年-1642年

「その人間から何かを学ぶことが出来ないほど愚かな人間に、私はあったことはない。 」

「数学は神が宇宙を書くためのアルファベットだ。」
パドヴァ大学の教授となり数学を教える。

その傍ら、自ら制作した望遠鏡を用いて天体を観測し、
「木星の4つの衛星」「金星の公転と満ち欠け」「太陽の黒点」「月面の凹凸」などを発見し、
コペルニクスの地動説を証明。

このためローマの異端審問所に召喚され宗教裁判にかけられ、
地動説に関する一切の著述・講義を禁止されてしまう。
69才という年齢に達していたガリレオは地動説を唱えることを放棄させられた。
判決の際「それでも地球は動く」と言ったのは有名である。

著書:『太陽黒点論』、『星界の報告』など。

仕事 愛 人間 人生

祖先を顧みようとしない人々は、子孫のことも考えまい。

英国の哲学者、政治家。

Edmund Burke(エドマンド・バーク)
1729年 - 1797年

「決して絶望してはいけない。でも、そんな状態になったら、
絶望から抜け出す努力をしなさい。」

1729年にダブリンに生まれる。
美学でデビューした哲学者である。

1790年、保守主義のバイブルとされる『フランス革命の省察』を出版。
「保守主義の父」として知られるようになる。
政治家としては、絶対王政を批判し、議会政治を擁護、近代政治哲学を確立した。
文章家・演説家でもあり、バークの著作は今でも英文学の対象である。
英国の国会議員にはバークで演説の訓練を行うものも多い。

著「フランス革命の省察」 「崇高と美の観念の起原」  など。

 

賢者とは何か。法に対して自然を、
慣習に対して理性を、 世論に対して自己の良心を、
謬見に対して自己の判断を対立させる人間である。

歴代アカデミー・フランセーズに名を連ねるフランスの劇作家。

Sebastian R.N. Chamfort(セバスチャン・シャンフォール)
1770年 - 1850年

「信念とは、精神の良心である」

フランスの歴史をさまざまな形で彩った偉人たち40名で構成される、
フランス学士院の最古のアカデミー、アカデミー・フランセーズに名を連ねる。

本名はセバスチャン・ロック・ニコラSbastien Roch Nicolas。
私生児として生まれ、グラサン学院を出て戯曲などを発表して成功を収めたが、
彼の真価はモラリストとして残した作品にある。

大革命時代に穏和派のかどで逮捕され、獄中で自らの体を切り刻み、
その傷がもとで死亡。

著「箴言と断想」 「性格と逸話」  など。

 

言葉。 それは魂の響きである。

イギリスの代表的なロマン派詩人。

William Wordsworth(ウィリアム・ワーズワース)
1770年 - 1850年

「始めるために、始めなさい。」

73歳で桂冠詩人となる。

ワーズワースは1770年、北西イングランドの「湖水地方」と呼ばれる風光明媚なコッカマスに生まれる。
早くに両親を亡くし、孤独な少年時代を支えたのは自然の美しさであった。

1798年から1799年にかけ自伝的作品を書き始め、『ルーシー詩篇』を含む多数の代表的な詩を書く。
その後、サウジー、コールリッジと並び「湖水詩人」として知られるようになるが、
この頃のワーズワースの作品は 主に死や別離、忍耐や悲しみに関する詩であった。

1839年にオックスフォード大学からD・C・L(Doctor of Civil Law)の名誉学位を送られ、
アメリカに おいてもワーズワースの人気は一般的なものとなる。
1843年には桂冠詩人の栄職が与えられた。

著「ルーシー詩篇」 「プレリュード」  など。

 

金を神のようにあがめると、

しまいには悪魔に変身して人を苦しめる。

イギリスの劇作家、小説家

Henry Fielding(ヘンリー・フィールディング)
1707年 - 1754年

18世紀イギリスの劇作家、小説家であり、 「イギリス小説の父」と呼ばれる。

「良心こそ、われわれのもっている唯一の買収のきかないものである。」

フィールディングは伯爵家の末裔であり、父はソールズベリ大聖堂の評議員をつとめており、
軍人であった。 イートンを卒業したフィールディングは、法律を学ぶ傍ら、
文学作品をさかんに濫読する。ロンドンに出て劇作家になり、風刺の効いた芝居を書いて
人気を博した。

フィールディングの政治批判によって演劇取締法が施行される。
家族を養うお金がなかったため、弁護士に転身し、その傍ら小説を書き始める。

弁護士を始めて三年と経たないうちに痛風の発作がしばしば彼を襲う。
やむなく新聞の編集長になり、当時のウォルポール内閣を批判した。

ウォルポール内閣が倒れた後、治安判事に就任。
1749年に代表作『トム・ジョーンズ』を発表した。

その後、病気が悪化したため、リスボンに転地療養に出かけ、そこで没す。

著「ジョゼフ・アンドリュース The History of the Adventures of Joseph Andrews」
  「トム・ジョーンズ The History of Tom Jones, a Foundling」  など。

 

偉大になればなるほど、非難の矢に当たりやすくなる。

ドイツの詩人、作家、ジャーナリスト。

Christian Johann Heinrich Heine(クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ)
1797年 - 1856年

ハイネの詩は、様々な作曲者から曲がつけられていることで有名である。

「恋に狂うとは、ことばが重複している。恋とはすでに狂気なのだ。」

デュッセルドルフのユダヤ人の家庭に生まれる。
大学ではA・W・シュレーゲル、ヘーゲルの教えを受け作家として出発。
学生時代からすでに50以上の雑誌に寄稿を行う。

『歌の本』などの抒情詩を初め、多くの旅行体験をもとにした紀行や
文学評論、政治批評を執筆。 1830年よりサン=シモン主義を親しみ始め、
著作中の政治批判や社会批判により、次第にドイツ当局から監視の目を向けられることになる。

1831年からはパリに移住して多数の芸術家と交流を持ち、
若き日のマルクスとも親交を持つ。 文学史的にはロマン派の流れに属するが、
政治的動乱の時代を経験したことから批評精神に裏打ちされた風刺詩や時事詩も多く発表している。

平易な表現によって書かれたハイネの詩は様々な作曲者から曲がつけられており、
今日なお多くの人に親しまれている。

著「歌の本 Buch der Lieder」 「詩集 Gedichte」  など。

 

自由な人が考えるのは、 ほかならぬ死についてである。
そして彼らの賢明さは、 そこから死ではなく、
生について熟慮をはじめることだ。

オランダの哲学者,神学者。

Baruch De Spinoza(バールーフ・デ・スピノザ)
1632年 - 1677年

哲学体系は代表的な汎神論と考えられ、
ドイツ観念論やフランス現代思想へ強大な影響を与えた。

「自分にはできないと思う、たいていの出来事は、
できないのではなく、本当はやりたくないだけなのだ。」

アムステルダムの富裕なユダヤ人の貿易商の家庭に生まれ、
幼少の頃より学問の才能を示す。 伝統から自由な宗教観を持ち、
神を自然の働き・ありかた全体と同一視する立場から、
当時のユダヤ教の信仰のありかたや聖典の扱いに対して批判的な態度をとる。

このようなことより、ユダヤ人共同体から破門・追放される。
追放後はハーグに移住し、転居を繰り返しながら執筆生活を行う。

1673 年にプファルツ選帝侯からハイデルベルク大学教授に招聘されるなど、
執筆での高い評価を受ける一方で、思索の自由が却って脅かされ、
1670年に出版した『神学・政治論』が禁書となる。

1675年に『エチカ』を完成させたが、出版を断念した。
肺の病を患っていたため、1677年スヘーフェニンヘン(ハーグ近く)で
44歳の短い生涯を終える。

著「デカルトの哲学原理」 「神学・政治論 Tractus Theologico-Politicus」   など。

 

良心を失った人間が、価値あるものを残すことはない。

イギリスの随筆家、伝記作家

Izaak Walton(アイザック・ウォルトン)
1593年 - 1683年

「釣り師は、すべての魚を愛する。」

1593年、スタッフォードに生まれる。

徒弟奉公を経て1614年に独立し、ロンドンで金物屋(一説には呉服屋)を営んで成功した。
43年に商売を辞めた後は、スタッフォード、ロンドン、フルハムと転じ、好きな釣りを楽しみながら
悠々自適の余生を送り、最後はウィンチェスターの娘婿のもとで過した。

53年のロンドン在住中に初版が発行された"The Compleat Angler"(『釣魚大全』)は、
その後作者自身とチャールズ・コトンにより増補・改訂が為され、76年にほぼ今の形となった。

釣りの楽しみの実践的書物であるとともに、故事伝承・歌・随想なども随所に
織りまぜられており、その素朴で味わい深い文章ともあいまって、古くから釣り人のみならず
数多くの読者に親しまれてきた。

また、ピューリタン革命などの内乱の時代を背景にした、西欧隠者文学の伝統を
引き継ぐ随筆文学の名作としても高く評価されている。
ウォルトンのモットーは、「ただ謙虚に穏やかに満ち足りた気持ちで過ごすこと人こそが、
幸いな人なのです。穏やかな気持ちでいれば、神も喜んでくださり、
自分も幸せになれるというわけです」という言葉に象徴される。

そして、それを実践している人こそが釣り人であると説く。

著「釣魚大全 he Compleat Angler」   など。

 

人が見ていない時に何をするかで、
その人の本性がわかる。

イギリスの歴史家&政治家&詩人。

Thomas Babington Macaulay(トーマス・バビントン・マコーリー)
1800年 - 1859年

イギリスで最も有名な歴史書のひとつに挙げられる「イングランド史」の著者。

「ゆっくり消化した1ページは、ななめ読みした1冊にまさる。」
トーマス・マコーリーは、植民地統治を仕事とする傍ら、
奴隷制廃止のための運動を展開していた父ザッカリー・マコーリーの第一子として生まれる。

18歳でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進み、文学方面で卓越した才能を見せた。
大学在学中に賞やメダルを幾度も獲得、
文筆家としてのデビューは1825年、西インド諸島の奴隷制についての記事を
「エディンバラ評論」に投稿したのがきっかけである。
そして同年8月に発表した2作目のミルトン論は、マコーリーを一躍有名人にのし上げた。

華々しく名を成したマコーリーであったが、個人的には災難が続くき、
生活してゆくために弁護士の道を選ぶ。
そんなときにマコーリーに声をかけたのが当時著名な政治家だったランズダウン侯爵である。
ランズダウン侯爵の意中のままに、ミルトン論や功利主義者との論争で
有名人となったマコーリーは小都市カルネから下院に当選する。
マコーリーは詩や散文だけでなく演説家としても優れていることを証明した。

マコーリーの著作・演説は、時折独断的ではあるが力強く明確で文学的に優れ、
自信に満ちた論調で有名である。 代表作『イングランド史』は死の直前に出版されたもので、
以来150年以上にわたり絶版されることなく売れ続けている。

著「イングランド史」 「古代ローマ詩歌集」  など。

 

私は困難の中で微笑むことのできる人が好きだ。

その人は悲しみから力を集めることができ、

非難によって勇気が増し加わる。

イギリス出身の社会思想家、作家。
Thomas Paine(トマス・ペイン)
1737-1809年

 

「子孫のために計画を立てる場合、
美徳は相続されないということを、忘れてはならない。」

ノーフォーク州セットフォードにコルセット製造業者の子として生まれ、
13歳から父親の店で職人としての修行を始める。

1772年に収税吏の賃金の実情についてパンフレットを執筆し、
文人のオリヴァー・ゴールドスミスと知り合う。

1774年アメリカに移住し、月刊誌『ペンシルベニア・マガジン』の編集主任となり、
1776年に政治パンフレット『コモン・センス』を販売。

『コモン・センス』は何十頁にもならないパンフレットだが、
アメリカ独立革命の最中に出版され、3ヶ月で12万部を売り切った。

植民地の権利を守らないイギリスの支配から脱し、
アメリカが独立するという考えは「Common sense」(常識)であると説く。

エドマンド・バークの『フランス革命についての省察』を反駁するため、
1791年と翌年にかけて『人間の権利』(Rights of Man)を出版し、
1793年までイギリスで200万部を売りつくしたとされる。

以降、『人間の権利』第2部で土地貴族を攻撃し世襲君主制への敵意を表明したため
イギリス政府に追放されるなど、波乱万丈の人生を送る。

1802年に再びアメリカに渡り、ジョン・アダムズをはじめとする連邦党と対立し、
奴隷反対を説き、理神論を改めようとしなかったために、
アメリカではほとんどの友人を失い、不遇のうちにニューヨークで没する。

著「コモン・センス Common Sense」 など。

 

運命はわれわれの行為を半分支配し、
他の半分をわれわれ自身にゆだねる。

イタリア、ルネサンス期の政治思想家。
Niccolo Machiavelli(ニッコロ・マキャヴェッリ)
1469-1527年

 

「運命の女神は、果敢に行動する者に味方する。」

1469年 フィレンツェに生れる。この頃フィレンツェ共和国は、
ロレンツォ・デ・メディチの死(1492年)、メディチ家の追放(1494年)、
サヴォナローラの神政を経て、サヴォナローラ失脚・処刑(1498年)があった大変動の時代であった。

マキャヴェッリは1498年、29歳の若さでフィレンツェの第二書記局長になる。
外交使節として各国を訪問する中で、教皇軍総司令官のチェーザレ・ボルジアに
理想の君主像を見出すが、チェーザレは間もなく失脚する。

傭兵に頼らない市民兵構想を打ち出し、実現させるが、スペイン兵の前にはあっけなく敗退した。
フィレンツェを追放されていたメディチ家が復帰すると職を失う。

その後『君主論』などの著述により、筆名は次第に上がる。
生涯、マキャヴェッリはメディチ家とは付かず離れずの関係であった。

1520年におきた反メディチの陰謀「オルティ・オリチェライ事件」の首謀者たちは
マキャヴェッリの学問的弟子であった。

また、ジュリオ・デ・メディチ(のちのクレメンス7世)は、
1520年に『フィレンツェ史』の執筆を依頼している。

また彼は自分の文才を歴史・政治以外にも広く発揮しており、
劇作家としてもかなりの名声を博していた。 私生活においては陽気なお喋りで、
飲む・打つ・買うが大好き、また良き夫、良き父親でもあった。

著「君主論 Il Principe」、「戦術論 Dell'arte della guerra」、「フィレンツェ史 Istorie fiorentine」など。

 

人間の能力は、いまだにその限界が知られていない。
人間になにができるか、先例から判断することもできない。
人間の試みてきたことは、あまりにも少ないから。

アメリカの作家・思想家・詩人・博物学者。
Henry David Thoreau(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー)
1817-1862年

 

「胸に思い描いたままの人生を生きよ。」

マサチューセッツ州コンコード市出身。
ハーバード大学卒業後、家業の鉛筆製造業、教師、測量の
仕事などにも従事したが、生涯を通じて定職につかず、
やがて学生時代に熟読した『自然』の著者で超絶主義者の
ラルフ・ウォルドー・エマソンらと親交を結んだ。

自費出版した処女作『コンコード川とメリマック川の一週間』(1849年)は、
若くしてこの世を去った兄とのボート旅行をまとめた随想で、
当時の社会には全く受け入れられなかった。

代表作『ウォールデン-森の生活』(1854年)は、
二年二ヶ月におよぶ森での一人暮らしの記録をまとめたものであり、
その思想は後の時代の詩人や作家に大きな影響を与えた。

ソローの死後『メインの森』(1864年)や『コッド岬』(1865年)などの旅行記や、
自然誌エッセー、日記、書簡集等、数多くの作品が出版されている。

ソローの作品は、人間と自然との関係をテーマにしたものが多く、
自然文学、いわゆるネイチャーライティングの系譜に位置づけられる。

多くの著作に現在の生態学に通じる考え方が表明されており、
アメリカにおける環境保護運動の先駆者としての評価も確立している。
日本においてもアウトドア愛好家等に信奉者が多い。

ソローは奴隷制度とメキシコ戦争に抗議するため、人頭税の支払いを
拒否して投獄されたことがあり、その様子は「市民的不服従」として
マハトマ・ガンディーのインド独立運動やキング牧師の市民権運動などに
思想的影響を与えた。

なお代表作『ウォールデン-森の生活』は、日本で明治44年(1911年)に
水島耕一郎によって翻訳された後、21世紀の現在に至るまで多くの翻訳が
出版されている。

著「ウォールデン 森の生活 Walden: or, the Life in the Wood」、
「メインの森 The Maine Woods」、「ザ・リバー  The river 」など。

 

愛とは、人間という謎に満ちた独特の存在が、
不思議に溶け合っていくことなのだ。

ドイツ・ロマン主義の詩人・小説家・思想家・鉱山技師。
Novalis(ノヴァーリス)
1772-1801年

 

本名はフリードリヒ・フォン・ハルデンベルク。筆名である
「ノヴァーリス」はラテン語で新開墾地を意味する。

「人とは、その当人が信じているものである。」

貴族の家庭に生まれ、父は厳格な敬虔主義(けいけんしゅぎ)で、
幼少時代は家庭教師の教育を受けて育つ。9歳の時に赤痢に罹り、
その後遺症で胃の弛緩を患う。

しかし、この病気を機に詩的、知的才能が花開いたと伝えられている。
その後、イェーナ大学に入学し法学を学ぶ。

1791年にはライプツィヒ大学へ転学。法学のほかに哲学、数学を学ぶ。
さらに2年後にヴィッテンベルク大学へ移り、その翌年に法学試験に合格する。

大学を首席で卒業すると、ルートヴィヒ・ティーク、アウグストと
フリードリヒのシュレーゲル兄弟らと親交を持ち、詩文芸の
無限な可能性を理論と実践において追求する。

ノヴァーリスの作品の特徴は、神秘主義的傾向にある。
とりわけ無限なものへの志向と、中世の共同体志向にある。
後者は中世のミンネザングを主人公にする
小説『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』や、宗教改革前の
世界をキリスト教というひとつの文化的背景によって民族性を超えた
普遍的地盤をもつ共同体として称揚。

評論『キリスト教世界あるいはヨーロッパ』にことに顕著に現れている。
1801年、以前から患っていた肺結核が悪化、ドイツ・ロマン主義を象徴する
作品『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』等を未完に残して、28歳で夭折する。

著「ザイスの弟子たち Die Lehrlinge zu Sais」、
「青い花 Heinrich von Ofterdingen」、

「夜の讃歌 Hymnen an die Nacht 」など。

 

他人を感動させようとするなら、
まず自分が感動せねばならない。
そうでなければ、 いかに巧みな作品でも
生命を持たない。

フランスの画家。
Jean-Francois Millet(ジャン=フランソワ・ミレー)
1814-1875年

 

「芸術は慰みの遊びではない。それは闘いである。」

パリの南方約60キロのところにある、フォンテーヌブローの森のはずれの
バルビゾン村に定住し、風景や農民の風俗を描いた画家たちを、
今日「バルビゾン派」と称している。

ミレーのほか、テオドール・ルソー、ディアズ、トロワイヨンなどが
バルビゾン派の代表的な画家であり、カミーユ・コローなども先駆者に数えられる。

バルビゾン派の中でも、大地とともに生きる農民の姿を、
崇高な宗教的感情を込めて描いたミレーの作品は、早くから日本に紹介され、
農業国日本では特に親しまれた。

ミレーは、1814年フランスノルマンディー地方ラ・マンシュ県の海辺にある
グリュシーという小さな村に生まれた。

8人兄弟の長男、父は農民であり村の教会の合唱指揮者でもあった。
大原美術館にあるパステル画『グレヴィルの断崖』は、晩年の1871年頃の制作ではあるが、
故郷の海岸の風景を描いたものである。

19歳の時、グリュシーから十数キロ離れたシェルブールの街で絵の修業を始め、
22歳の1837年、パリへ出て、当時のアカデミスムの巨匠であった
ポール・ドラローシュ(1797-1856)に師事する。

デッサンや模写のほか、聖書や神話など画題となる古典文学にも学ぶ。
26歳の時、肖像画がサロン(官展)に初入選するが、奨学金が停止されていたため、
生活は貧く肖像画や裸体画を描いた。

この頃の画風はマニエル・フルーリ(華やかな手法)と評されており、
繊細で柔らかなタッチと明るい色彩が特徴で、神話画などを多く手がけている。

1841年、シェルブールで仕立屋の娘ポーリーヌ=ヴィルジニー・オノと結婚しパリに住むが、
彼女は3年後の1844年に肺結核により病死する。

1846年には同棲中だったカトリーヌ・ルメートルという小間使いの女性との間に第1子が誕生。
このカトリーヌと正式に結婚するのはかなり後の1853年のことであるが、
それ以前の1849年、パリにおけるコレラ流行を避けて、ミレーはパリの南方約60キロの、
フォンテーヌブローの森のはずれにあるバルビゾンへ移住し、以後同地で制作を続けた。

この頃には共和国政府からの依頼もあり、経済的にも安定して農民画に専念し、
『種まく人』をサロンへ出品するのは翌1850年のことである。

ミレーの代表作に数えられる『晩鐘』『落穂拾い』などの代表的農民画は、
バルビゾン移住後の作品である。

「落穂拾い Les Glaneuses」、「種まく人 Le semeur」、「晩鐘 L'Angelus 」など。

 

平等を求めるものは、たいてい劣っているもので、

低いものほど、平等を要求する。

また中位の連中は、むしろ優越を欲して特権を要求する。

しかし、真に優れている人は、

平等も要求しないし、優越も要求しない。

古代ギリシアの哲学者。
Aristotles(アリストテレス)
紀元前384年-紀元前322年

 

「大事をなしうる者は、小事もなしうる。」

プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンと共に、
しばしば「西洋」最大の哲学者の住人と見做され、
又その多岐にわたる自然研究の業績から「万学の祖」とも呼ばれる。

イスラーム哲学や中世スコラ学に多大な影響を与えた。
またアレクサンドロス大王の家庭教師であったことでも知られている。

アリストテレスによる書き物は元々は550巻ほどあったともされるが、
そのうち現存しているのはおよそ3分の1である。

ほとんどが講義のためのノートあるいは自分用にしたためた研究ノートであり、
公開を想定していなかったため簡潔な文体である。

様々な経緯を経て、ロードス島のアンドロニコスの手に渡り、
紀元前30年ころに整理編集され、それが現在『アリストテレス全集』と
呼ばれているものとなった。

キケロ等の証言によれば、師プラトン同様、
アリストテレスも いくつか対話編を書いたようであるがそれらは全て残存していない。

著「エウデモス 」、「政治学」など。

 

自尊心とは、人間がまとう最も尊い衣装であり、何ものにもまして精神を奮い立たせる

英国の作家、医者。
Samuel Smiles(サミュエル・スマイルズ)
1812- 1904年

 

「やることを誰よりもたくさん抱えていて、働く気のある人が、
最もたくさんの時間を見出すことになる。」

はじめエディンバラで医者を開業したが、のち著述に専念するようになった。
1858年にジョン・マレー社から出版された「自助論」は、明治維新直後に
中村正直の翻訳により『西国立志編』として日本に紹介され、
福澤諭吉の『學問ノスヽメ』と並んで日本の近代化を志す青年たちを中心に広く親しまれ、
その思想は近代日本の基礎を作る上で大きな影響を与えた。

自己実現をするのに遅すぎるということはないし、これらの年とった人たちが、
自分の子供や自助の心を持った青年を選んで、彼らを助けてほしいと思う。
と述べている。

著「自助論 」など。

 

我々は人生という大きな芝居の熱心な共演者だ。

ドイツの開業医、小説家、詩人
Hans Caross(ハンス・カロッサ)
1878- 1956年

 

バイエルン王国(現在のドイツ)に生まれた。
父も祖父も医師であった。
1886年、一家が転居したピルスティング(Pilsting)の小学校に入り、
1888年、ランツフートのギムナジウムへ進んだ。

1897年、ミュンヘンに出、ミュンヘン大学、ヴュルツブルク大学、 ライプツィヒ大学で
医学を修め、かたわら、詩人や作家と交友し、詩を新聞雑誌に載せた。

1903年、医師となり、パッサウ市で父の代診を始めた。
詩人リヒアルト・デーメル(Richard Dehmel)やホフマンスタールに近づき、
1910年には『詩集』を、1913年には『ドクトル・ビュルゲルの最後』を出版した。

1914年、第一次世界大戦勃発直後、ミュンヘンへ移住。
志願して軍医となり各地に転戦し、陣中で『幼年時代』や
『ルーマニア日記』の草稿を綴った。

その後、ドナウ川畔のゼーシュテッテン(Seestatten)へ移り、
自らの経験にもとづく数篇の小説を書いた。

1931年、チューリッヒでゴットフリート・ケラー賞を、
1938年、フランクフルト・アム・マイン市のゲーテ賞を受賞した。

1956年(78歳)、パッサウ市に程近い「ノイキルヒェン・バイム・ハイリゲン・ブルート」に没す。

著「ドクトル・ビュルガーの最後」など。

 

道徳的に見て間違っている事が
政治的に正しいなどということはあり得ない

イギリス 政治家
William Ewart Gladstone (ウィリアム・エワート・グラッドストン)
1809-1898年

 

「私からすべてを奪うとしても,信仰を奪うことはできない。」

19世紀イギリスの典型的な議会政治家で、明治期日本の政党政治家には、
自由主義の理想を追求する政治家として人気があった。

アヘン戦争の際も議会において反対の演説を行い正義感にあふれた人物であった。

1859年から1866年にかけて再び蔵相を務め、1867年に自由党党首となる。
1868年から1874年に首相としてアイルランド国教廃止、
第1次アイルランド土地法・軍制改革・秘密投票法・司法制度の改革を成立させた。

1880年から1885年の第2次グラッドストン内閣では第3次選挙法改正を行い、
1886年の第3次内閣はアイルランド自治問題で崩壊。
1892年から1894年の第4次内閣の時に提出した
アイルランド自治法案は、上院で否決された。

 

友情関係は同等関係である

ドイツ 思想家
Immanuel Kant (イマヌエル・カント)
1724-1804年

 

「成功に至る第一歩は、自分が心で何を望んでいるかを見つけ出すことです。
それがはっきり分からないうちは、何を期待しても駄目でしょう。」

近代において最も影響力の大きな哲学者の一人である。
『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、
批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。
ドイツ観念論哲学の祖でもある。

カントの構想では批判は形而上学のための基礎付けであり、
それ以降の関心は形而上学へ向かった。またカントの哲学には道徳への関心が濃く、
すでに批判のうちに表明されていた道徳と宗教および神概念への関心は
宗教哲学を主題とするいくつかの著作へと向かった。

著「純粋理性批判」「永遠平和のために」など。

 

人間が幸せか不幸かは、人生に起きる出来事を
その人がどう捉えるかにあり、出来事とはそれほど関係はない。

ドイツ 言語学者 政治家
Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt(カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト)
1767年-1835年

 

「たいていの人々は、運命に過度の要求をすることによって、自ら不満の種をつくっている。」


ヴィルヘルム・フォン・フンボルト
『国家活動の限界を決定するための試論』は、
ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』にも大きな影響を与えた。

ミルは自由論を政府がどの程度まで国民の自由を制限できるか。
国民はどの程度の客観的証拠による注意によって、
自らの自由な注意によってどの程度まで政府に干渉されずに、
自由な意思決定がすべきなのかについて自由論において考察を行った。

例として毒薬の薬品の注意書きは政府によって命令されるべきか、
自らの自由な意思によって注意すべきかを挙げて考察している。

もし自らの意思によって注意すべきであるならば、政府は注意書きを
つけるように強制すべきではないが、それが不可能ならば
政府は注意書きを強制すべきであるというのである。

ここに国民の能力の問題をも取り上げることとなった。

著「言語と人間」「双数について」など。

 

勇気とは、恐ろしくて半分死にそうになっている時でさえ、
その場に必要な行動が取れる能力である。


セルジューク朝(トルコ) 学者・詩人
Marcus Tullius Cicero(マルクス・トゥッリウス・キケロ)
紀元前106年-紀元前43年


「どれほど、たくさんの知識を頭に詰め込んだとしても、
使わないなら、意味がないどころか重たいだけだ。」

祖先に顕職者を持たない「新人」でアルピヌムの出身であった。
キケロは若い頃、友人に無名の家名(キケロ家)を避けた方が良いと
アドバイスを受けたものの、「私自身の手でスキピオ家やカトゥルス家より
有名にしてみせる」と語ったという。

キケロはカエサルと並ぶラテン語散文の名手であり、その完成者といわれる。
彼の著作は多岐にわたり、演説や書簡でも知られている。

彼の文学者としての評価および政治思想家としての評価は定まっており、
今日でも注目を浴び続けている。
現在でもキケロに関する研究は地道に進められている。

日本語訳は近年まで、岩波文庫などで数冊訳された位だったが、
1999年に、岩波書店から『選集』が出され、
併せて日本人による研究書が刊行されている。

新訳が岩波文庫でも刊行された
著「国家論」「大カトー・老年について」など。

 

あらゆる人は同等である。
それを異なるものにするのは生まれではなくて、
徳にあるのみ。


フランス 哲学者、作家。

Francois-Marie Arouet(フランソワ=マリー・アルエ)
1694-1778年

「私はあなたの意見には反対だ、
だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

1718年に喜劇『オイディプス』を発表したが、その直後に
摂政・オルレアン公フィリップ2世を諷刺したとしてバスティーユに投獄された。

1726年、けんかのため再び投獄、まもなく釈放され、
1728年までイギリスに亡命した。

アイザック・ニュートン、ジョン・ロックなどの思想を直接知って哲学に目ざめ、
帰国後1734年に『哲学書簡』(別名『イギリス書簡』)を著した。

その後、文学、哲学、歴史学など多様な分野の第一線で活躍し、
1750年には、プロイセンのフリードリヒ大王を訪問した。

帰国後「百科全書」にも寄稿した(直後に「百科全書」は出版許可が取り消される)。
つねに目立ったところで行われた反ローマ・カトリック、
反権力の精力的な執筆活動や発言により、
ヴォルテールは18世紀的自由主義の一つの象徴とみなされた。

没後、パリの教会が埋葬を拒否したためスイス国境近くに葬られたが、
フランス革命中の1791年、ジロンド派の影響によって、
パリのパンテオンに移された。

著「カンディード」など。



人々がどんなことを言おうとも、

女の最大の野心は愛を吹き込むことだと信じている。


ドイツ 政治家

Moliere (モリエール)
1622年-1673年

「女は、せいぜい胴衣とズボンの見分けがつくくらい
  頭が進歩していりゃたくさんさ。」

 

本名はジャン=バティスト・ポクラン(Jean-Baptiste Poquelin)で、
パリの裕福な家庭に生まれる。オルレアンの大学で法律を学んだ後、

俳優となるが芽が出ず、売れない劇団の座長として

地方の旅回りを続けた。

 

その中で喜劇作品を書き始めた。

 

1658年、パリに戻り次々に作品を上演し、

『お嫁さんの学校』(1662年)が大評判となって

劇作家として認められた。

 

モリエールの劇作は宮廷でも支持を得て、

喜劇に対する人気、評価を高めた。

 

喜劇作品『人間嫌い』『ドン・ジュアン』『町人貴族』『病は気から』

『いやいやながら医者にされ』『スカパンの悪だくみ』などがある。

 

モリエールの死後、コメディ・フランセーズが創設された(1680年)。

 

著「町人貴族 」「人間嫌い」など。



賢者は歴史から学び愚者は経験からしか学ばない


ドイツ 政治家

Otto von Bismarck (オットー・フォン・ビスマルク)
1815-1898年

アメリカ 第16代アメリカ合衆国大統領。

 

「歴史が証明するところによると、逃した機会は二度と戻らない」

プロイセン王国の首相 (在任1862年 - 1890年)、
ドイツ帝国初代帝国宰相(1871年 - 1890年)。

 

プロイセン王ヴィルヘルム1世の右腕としてドイツ統一を
目指して鉄血政策を推進し、普墺戦争や普仏戦争を主導してこれに勝利。

 

1871年にヴィルヘルム1世をドイツ皇帝として戴冠させ、

ドイツ統一の立役者となる。

 

君主主義の保守的な政治家、優れた外交官でもあり、

現実主義に根ざした政治的手腕には卓越したものがあった。

 

統一ドイツの初代帝国宰相兼プロイセン首相となり、

1890年に引退するまで19年にわたって務めた。

 

1888年、ビスマルクが長年仕えたヴィルヘルム1世が死去する。

息子のフリードリヒ3世が跡を継ぐが3ヶ月で死去し、

その息子のヴィルヘルム2世が跡を継いだ。

 

この若き皇帝は植民地拡大を望み、また社会主義者鎮圧法の

更新に反対してビスマルクとたびたび衝突、
ついには1890年にビスマルクを解任した。

 

ビスマルクは領地のハンブルク近郊のフリードリヒスルーに引退し、
1898年7月30日に没した。



出来ると決断しなさい。
方法などは後から見つければいいのだ。


アメリカ 第16代アメリカ合衆国大統領

Abraham Lincoln (エイブラハム・リンカーン)
1809-1865年

アメリカ 第16代アメリカ合衆国大統領。

 

「たいていの人は災難は乗り越えられる。

本当に人を試したかったら、権力を与えてみることだ。」

 

初の共和党所属大統領。

しばしばエイブ (abe) の愛称で呼ばれ、オネスト・エイブ (Honest Abe)、

レール・スプリッター (the Rail Splitter)、偉大な解放者(the Great Emancipator)、
奴隷解放の父と呼ばれた。

 

ゲティスバーグ演説の一節にある「人民の人民による人民のための政治」

という言葉が有名であるが、原語の

"government of the people, by the people, for the people"は

「人民から人民による人民のための統治」という意味。

 

1380年にイギリスで出版された旧約聖書にジョン・ウィクリフが序文として

書き込んだ文章であり、牧師のセオドア・パーカーが著書で紹介したのを

引用したものと思われる。

 

1865年4月14日フォード劇場で「Our American Cousin」

(イギリス貴族遺産相続にアメリカ人の甥がからむ喜劇)という

現代劇を妻メアリー・トッド、従者・チャールズ・フォーブスと

ヘンリー・ラスボーン少佐、少佐のフィアンセのクララを伴って観劇中、

北軍のメリーランド州出身の俳優ジョン・ウィルクス・ブースに1.2mの

至近距離から拳銃で後頭部左耳後5cmを1発撃たれた。

 

致命傷を負った大統領は通りの向かいの民宿、ピーターセンハウスに運ばれた。

 

しばらくの昏睡の後、1865年4月15日午前7時21分にリンカーンの死亡が宣告された。



この世で最も強い人間は、孤独の中でただひとり立つ人間だ。


ノルウェー 劇作家

Henrik Johan Ibsen (ヘンリック・イプセン)
1828-1906年

「他人のために尽くすことによって、自己の力は量ることができる。」

 

シェイクスピア以後、世界で最も盛んに上演されている劇作家とも言われる、
近代演劇の創始者。


イプセンは生活状況や道徳問題についての批評的な眼や疑問を紹介するため、
主に現代劇に基礎を置いた。

 

当時は家庭生活や礼儀についてのヴィクトリア朝的価値観が
ヨーロッパで大きく広まっており、
それらに対するいかなる挑戦も不道徳的で
非常識とされていた。
そのため、彼の劇は同時代の多くの人々に、スキャンダラスと考えられた。

 

長らくノルウェーの最高額面の1000クローネ紙幣にその肖像が描かれていたほど

ノルウェーの象徴の人物とされ、史上最も重大な劇作家として高名である。

 

著作「野鴨」「人形の家」「ロスメルスホルム」など。

呼吸が身体の活力であるように、名声は心の活力である。


スペイン 哲学者

Balthasar Gracian (バルタザール・グラシアン)
1601-1658年


「人に好かれるための唯一の方法は、 畜生のなかで最も愚かなものの皮をかぶることである。」

各地の神学校教授を歴任し、国王の顧問をも務めたスペインイエズス会の修道士、哲学者。

堕落、貧困、偽善、そして世界的に道徳的価値観が崩壊していた17世紀、
良識ある人々に世の中に裏切りやペテンがあふれていることを繰り返し警告した。

哲学者のニーチェは、
「ヨーロッパはいまだかつて、これほど精妙にして複雑な人生の道徳律を生んだことはなかった」 と評した。

著作「処世神託」「賢者の教え」など。

父親のテントの中で眠りこけるな。
世界は進歩しつつある。
世界とともに進歩せよ。


イタリア 政治家

Giuseppe Mazzini (ジュゼッペ・マッツィーニ)
1805-1872年


「個人の時代は過ぎ去った。集団は自己の歩む世界には無限の力がある。」

イタリアのイタリア統一運動時代の革命家。

カヴール、ガリバルディと並ぶ「イタリア統一の三傑」の1人。
マッツィーニは、イタリアの統一事業は民衆の蜂起なしには 成功しないと
信じていた。彼はその政治的信条を、出版活動を通じて公言し続けた。
これにより彼の名は広く知られることとなる。

思想的にはサン・シモンの唱える進歩論と共同社会論を支持し、
平等主義を 唱えるブオナローティと対立した。

著作「語録」など。

人間は異郷に生まれてくる。
生きることは故郷を求めることである。
考えることは生きることである。


ドイツ 作家

Karl Ludwig Borne (カール・ルートヴィヒ・ベルネ)
1786-1837年


「あらゆる愚鈍を汲みつくし、初めて底にある英知に到達する。」

政治的な作風で知られる、作家兼文芸評論家。
著名なロマン派詩人、ハインリヒ・ハイネとの関連性により
名を知られることとなった。

フランクフルト・アム・マインのユダヤ教徒コミュニティーに、
「レープ・バルーフ」として生まれる。

1818年ルター派に改宗し、 1830年の七月革命以降パリに移住。
「Briefe aus Paris, 1830-1833」を完成させた。

ハイネとは、1827年にハイネがミュンヘンに移った際、
旅上(フランクフルト)で知己を得ている。

著作「断片と警句」「戯曲論」「白鳥狂」など。

忠告は雪の如し。 穏やかなものほど、
永く、深く、心に降り積もる。


イギリス 詩人

Samuel Taylor Coleridge (サミュエル・テイラー・コールリッジ)
1772-1834年


「偶然は、神が公に署名しない特別なケースのために取っておく
神のペンネームである。」

幻想的な作風で知られた、イギリスのロマン派詩人。

ウィリアム・ワーズワースとの共著「抒情歌謡集」で詩人としてデビューし、 多数の作品を著す。
無意識からわき起こって来るイメージを言葉に直したような神秘的で怪奇な
詩作品を数多く残した。 とりわけ作品「クーブラカーン」は、麻薬の吸引によって生じた
陶酔状態のなかで見た幻覚を、 目覚めてから急いで文章にしたものであると言われている。

著作「クーブラカーン」「老水夫行」「クリスタベル姫」など。

汝がいっさいを屈服させんと欲せば、
汝自身を理性に屈服せしめよ。

イタリア 哲学者

Lucius Annaeus Seneca (ルキウス・アンナエウス・セネカ)
紀元前1-65年


「人間は弱者にして堕落させる存在であり、相争い、かつ世界の秩序を非難し、
己を改変するよりも神を変えんとす。」

ローマ帝国ユリウス・クラウディウス朝期の哲学者。

第5代ローマ皇帝ネロを幼少期から治世初期までブレーンとして支え、
後世から言及される「ネロの5年間」「5年の良き時代」のバックボーンとして
活躍したとされるが、具体的にセネカが果たした役割ははっきりとしない。

多くの悲劇・著作を記し、ラテン文学の白銀期を代表する人物である。

著作「パエドラ」「狂えるヘルクレス」「怒りについて」など。

人格とは、高きものと、まったく低きものとが
一つになったものである。
人格の高さとは、この矛盾を持ち耐えることである。


ドイツ 哲学者

Georg Wilhelm Friedrich Hegel (ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル)
1770-1831年


「英雄の従者にとって英雄なる人はひとりもいない。
というのは、英雄が英雄でないからではなく、従者が従者であるゆえんだからだ。」

フィヒテ、シェリングと並んでドイツ観念論哲学を代表する思想家。

古典に通じた慧眼で現実的かつ理想的な哲学を展開し、同時代のみならず
後世にも大きな影響を与えた。 弁証法の提唱者としても有名。

著作「法哲学」「精神現象学」「エンチクロペディー」など。

人間文化よ、支配せよ。これこそおまえの時代である。

スイス 哲学者

Henri Frederic Amiel (アンリ・フレデリック・アミエル)
1821-1881年


「真実とは雄弁と美徳の秘訣であり、倫理的根拠の基礎であり、美術と人生の極致である。」

本人の死後発見された「アミエルの日記」により有名となった、
生前はジュネーブ大学で美学と哲学を講じていた人物。

「アミエルの日記」とは、約30年の期間 計17000ページに渡って綴られた
内省的な人生記録。

冷酷なまでの自己観察に貫ぬかれ、 思想と芸術、自然と人生の諸相の多彩な
ルポルタージュとして一大偉観を成している。

この日記は、19世紀末から20世紀のスイスのみならずヨーロッパの作家たちにも
大きな影響を及ぼした。

著「アミエルの日記」など。

人間ならば、誰もがすべてを見ているわけではない。
多くの人は見たいと欲する現実しか見ない。

イタリア 政治家

Gaius Julius Caesar (ガイウス・ユリウス・カエサル)
紀元前100-44年


「わたしは王ではない。カエサルである」

“神君カエサル”と呼称された、古代ローマの政治家・軍人・文筆家にして不世出の天才。

事実上一人支配を確立し、以降の帝政の基礎を作った。
紀元前60年、ポンペイウス、クラッススと共に第一回三頭政治を実現。
世界国家の実現を目指した。

ローマにおいて独裁者の地位に就いたが、元老院議員たちの謀略によって暗殺された。

雄弁とは
真実を相手が完全に理解できる言葉に
翻訳できる能力である。

アメリカ 思想家

Ralph Waldo Emerson (ラルフ・ウォルド・エマーソン)1803-1882年

「もし自尊心をなくせば、全宇宙を敵にまわすだろう。」

“コンコードの哲人”と称され、18歳でハーバード大学を卒業した天才。
21歳までボストンで教鞭をとる。

その後、伝道資格を取得し牧師になるが、 古い制度に縛られた教会というものに
疑いを抱き、 わずか3年で辞職を決意。その後創作活動に従事した人物。

ピューリタニズムとドイツ理想主義の流れをくみ、超絶主義を唱えた。

著「自然論」「エッセイ集」「偉人論」など。

人間は、理性のうちに負けたものの埋め合わせを
怒りの中でするものである。

アメリカ合衆国 小説家

Horatio Alger Jr (ホレイショ・アルジャー・ジュニア)
1832-1899年


「文学は商売と芸術が半々であるとき最も栄える。 」

アルジャーの作品の多くは、
「ボロ着から富へ(Rags-To-Riches)」の物語と形容される。

その内容は、落ちぶれた少年達であっても、努力・勇気・決断などを 通じて
富と成功のアメリカンドリームを実現させることができるということを描いている。

彼は、アメリカの文化的・社会的理想像の歴史の中で重要な人物と
位置づけられている。

彼の小説がベストセラーであった頃には、その人気はマーク・トウェインの小説に
匹敵するほどであったという。

「金ぴか時代」のアメリカン・ドリームが形を成した時代、アルジャーの作品は
社会の縁で生活していた多くの若者達に、輝かしい未来への希望を与えた。

主著「意志と表象としての世界」。

私は決して障害に屈しはしない。いかなる障害も、
私の中に強い決意を生み出すまでだ。

イタリア 芸術家

Leonardo da Vinci (レオナルド・ダ・ヴィンチ)
1452-1519年


今日、イタリアのルネサンス期を代表する芸術家で、万能の天才として知られる人物。

「万能人(uomo universale)(ウォモ・ウニヴェルサーレ)」とも呼ばれている。

絵画、彫刻、建築、土木および種々の技術に通じ、極めて広い分野に 足跡を残している。

『最後の晩餐』や『モナ・リザ』などの精巧な絵画は盛期ルネサンスを代表する
作品になっている。

膨大な手稿(ノート)を残しており、その中には飛行機についてのアイデアも含まれていた。

作品「最後の晩餐」「モナ・リザ」など。

天才の特徴は、凡人がひいたレールに
自分の思想をのせないことだ。

フランス 小説家

Stendhal (スタンダール)
1783-1842年


「愛する女に会ったすぐ後では、他のどんな女を見てもめざわりだ。
生理的に目が痛くなる。 」

グルノーブル高等法院の弁護士の子として生まれる。

7歳の時に亡くなった母を終生、異常なまでに偏愛し続け、その反動で、
実務家で王党派の父を激しく憎み続けた人物。

軍人となったスタンダールだったが、実際には馬に乗る事も剣を振るう事も出来ず、
もっぱら女遊びと観劇にうつつをぬかしていたと言われる。

1842年、パリの街頭で脳出血で倒れ、死去。

墓碑銘は「ミラノ人アッリゴ・ベイレ 生きた、書いた、愛した」である。

著「恋愛論」「赤と黒」など。

たとえ身体は奴隷なるも、精神は自由なり。

古代ギリシア 三大悲劇詩人

Sophokles (ソフォクレス)
紀元前496年-紀元前406年


「思えば、すべてわれわれ生ある限りの者は、まぼろしか、むなしき影にすぎず。 」

劇の作法について数編の論文を著すなど理論面を重視し、
ギリシア悲劇というジャンルを完成させた人物。

成功した悲劇作家として富裕な市民でもあった。
123編の悲劇を書いたと言われるが、欠けずに現存するのはわずか7編。

絶対なる運命=神々に翻弄されながらも、悲壮に立ち向かう人間を描いたものが多い。

著「ギリシア悲劇全集」など。

その好むところを見て、以ってその人を知るべし。

ドイツ 詩人・東洋学者

Johann Michael Friedrich Ruckert (ヨーハン・ミヒャエル・フリードリヒ・リュッケルト)
1788-1866年


「運命が明日何を決定するかを問うな。瞬間こそわれわれのものである。
さあ、瞬間を味わおうではないか。 」

東洋文学をドイツ語に翻訳することで抒情詩のスペシャリストと言われた人物。

稀にみる語学の天才で、70種類の言語を習得したと言われる。
古典文化の言語の研究にも携わり、さまざまな形式を駆使し、
ドイツ語による詩の中でも最も美しいもののいくつかが
彼の手によって生み出されている。

著「愛の春」など。

その好むところを見て、以ってその人を知るべし。

中国 儒学者

Wang Yang Ming (王陽明)
1472-1529年


「知の痛切にして誠実なるところが行であり、行の明確にして精密なるところが
知にほかならず。 」

朱子学を批判的に継承し、学問のみによって理に到達することはできないとして、
静坐など実践を通して心に理をもとめる実践儒学陽明学を起こした人物。

著「陽明学」など。

英雄とは終始一貫して自己を集中する人間である。

フランス 批評家、詩人

Charles Pierre Baudelaire (シャルル・ピエール・ボードレール)
1821年-1867年


「宿世は短し! 墓は待つ、墓は飢えたり! 」

若くして美術批評家として文壇にデビューを果たした人物。

ダンディとして知られ、亡父の遺産をもとに散財の限りを尽くし、
準禁治産者の扱いを受ける。その後は、死ぬまで貧窮に苦しむこととなる。

生前発表した唯一の詩集『悪の華』が摘発され、そのうちの6編が公序良俗に反するとして
罰金刑を受ける。

後に第二版を増補版として出版し、詩人としての地位を確立した。
その卑猥的、耽美的、背教的な内容は彼の後の世代に絶大な影響を与えることとなる。

特に現実と理想の溝から生じる、作品に溢れる絶望感とアンニュイは、
一種の退廃的な時代の病を表徴している。

著「パリの憂鬱」

時は貴重であるが、真実はそれよりもっと貴重である。

古代ギリシア 哲学者

Platon (プラトン)
紀元前427年-紀元前347年


「徳は一種の健康であり、美であり、魂のよい在り方なり。
それに反し、悪徳は病気であり、魂であり、弱さなり。 」

アカデメイアという名で学校を開いた人物。
そのためプラトンの後継者はアカデメイア派と呼ばれる。

プラトンとアリストテレスの思想は西洋の哲学の大きな源流となった。
また、その理想とした社会像は共産主義におけるプロレタリアート独裁にも
深い影響を与えたとされる。

著「ソクラテスの弁明」「国家」など

成功というものは、風に吹かれる穂波のように、
それに対して人が身をかがめ、
そののちに再び身を起こす、
そういう成功があるだげだ。

オーストリア 詩人

Rainer Maria Rilke (ライナー・マリア・リルケ)
1875-1926年


「私の運命は何一つ運命を持たないことです 」

独特の言語表現による詩は、ドイツ詩に新たな一面を切り開いた人物。

20世紀のドイツ文学の代表者の一人であり、
ドイツ文学史を通して見ても最高峰の詩人の一人に数えられる。

また独自の宗教観や時代に対する不安や苦しみといった概念は、
20世紀を象徴するようにも捉えられている。

著「わがための祝い」「鎮魂歌」など。

多くの愚者を友とするより、一人の知者を友とするべきである。

古代ギリシア 哲学者

D?mokritos (デモクリトス)
紀元前460年-紀元前370年頃


「何もかも知ろうとして苦労はするな。さもないと、何ひとつ覚えられない。」

トラキア地方のアブデラ(Abdera)の人。
レウキッポスを師として原子論を確立した人物。

財産を使いはたして故郷の兄弟に扶養されたが、その著作の公開朗読により
100タレントの贈与を受け、国費で葬られたという。

哲学のほか数学・天文学・音楽・詩学・倫理学・生物学などに通じ、
その博識のために〈知恵 Sophia〉と呼ばれた。

またおそらくその快活な気性のため〈笑う人 Gelasinos〉とも称される。

真実を探している者を信じよ。真実を見つけた者は疑え。

フランス ノベール文学賞受賞作家・小説家

Andre Paul Guillaume Gide(アンドレ・ポール・ギヨーム・ジッド)
1869-1951


「海岸を見失う勇気がなければ、新しい海は発見できない。」

ゲーテ勲章を授与され、ノーベル文学賞を受賞した人物。

反戦・反ファシズムの運動に参加したほか、殖民地の惨状に目を向けるなど
広く社会問題に取り組み、『ソヴィエト紀行』でスターリン体制を痛烈に批判した。

小説には、妻をモデルにした『背徳者』『狭き門』などを発表。
最愛の妻が亡くなると深い孤独感に陥り『今や彼女は汝の中にあり』を発表。

『法王庁の抜け穴』など、キリスト教的道徳からの解放を訴えて
宗教界を揶揄する作品を発表。欧州の広範囲に渡って文学的影響を与えた。

ジッドの全著作はローマ教皇庁により禁書の扱いを受ける。
日本では、和気津次郎により紹介され、石川淳、横光利一など、
当時の文人たちに多大な影響を与えた。

1889年、ダンテの『神曲』地獄篇に登場する『地獄の門』を覗き込む男を
一つの彫刻として発表した。

著作「田園交響楽 」「一粒の麦もし死なずば」「贋金つくり」など。

何を生命と呼ぶか。あらゆる意味から君を激動させるもの、
君を突き貫くもののことです。

フランス 彫刻家

Francois Auguste Rene Rodin(フランスワ=オーギュスト=ルネ・ロダン)
1840-1917年


「情熱をもって君たちの使命を愛せよ。これより美しいことはない。」

19世紀を代表する彫刻家で『近代彫刻の父』と呼ばれた人物。
警視庁の書記の息子として生まれる。

芸術家の登竜門であった国立美術学校エコール・デ・ボザールの
入学試験に臨むが、三度落ち断念。

それ以後、古代ギリシアのペイディアスとルネサンスのミケランジェロを師として、
独学で彫刻を学ぶ。

1864年、『鼻のつぶれた男』をサロンに出品するが酷評され、
以後作品を発表しなかったが、 1875年、イタリア旅行でミケランジェロの作品と出会い
強い感銘を受け、2年後、長い沈黙を破り『青銅時代』を出展。

ロダンの名はフランス中に広まった。

1889年、ダンテの『神曲』地獄篇に登場する『地獄の門』を覗き込む男を
一つの彫刻として発表した。

作品「カレーの市民」など。

私達はいわば二回この世に生まれる。
一回目は存在するために、二回目は生きるために。

フランス 哲学者 政治思想家

Jean-Jacques Rousseau (ジャン=ジャック・ルソー)
1712-1778年


「慣習とは反対の道を行け。そうすれば常に物事はうまくいく。 」

1731年にジュネーブを離れ、ヴァラン男爵夫人に庇護されながら、
さまざまな教育を受け、その愛人となった。

この時期については晩年、生涯でもっとも幸福な時期として回想している。

ルソーの政治思想の特徴は、他にも「社会契約説」
(国家は人民間の契約により形成されたものであり、
       歴史的・伝統的要素は排斥すべきとする考え)
にも見られる様に、従来の価値観や伝統などの慣習から解放された
個人を理想とするところにあるといえる。

著「エミール または教育について」「告白」など。

これから私は幸福を求めない・・・・・私自身が幸福だ

アメリカ 詩人、随筆家、ジャーナリスト、ヒューマニスト

Walter Whitman (ウォルト・ホイットマン)
1819-1892年


「若い女は美しい――しかし老いた女はいっそう美しい。 」

超越主義から写実主義への過渡期を代表する人物の一人。
作品には両方の様相が取り込まれている。

アメリカ文学において最も影響力の大きい作家の一人でもあるが、
発表当時の作品に対する評価は大きく割れ、しばしば「自由詩の父」と呼ばれる。

ニューヨーク州ロングアイランドに生まれ、ジャーナリスト、教師、公務員として
働き、南北戦争に志願看護師として従事する傍ら、詩を出版する。

1855年に自費出版されたホイットマンの代表作『草の葉』は、
アメリカの叙事詩を市井の人々に届けようという試みであった。

ホイットマンは1892年の死まで、この作品の拡充、改訂を重ねた。
それぞれの版には、時代の風潮や作者の思想の変化が反映されている。

著「草の葉」

嘆かわしいことに、ほとんどの人は手段だけ考えて目的を考えない。
各人はそれぞれの職務をいかに果たそうかと考える。
しかし職務の選択については運命の与えるままにまかせている。

フランス 数学者・哲学者・宗教家

Blaise Pascal (ブレーズ・パスカル)
1623-1662年


「人からうまく思われたいなら、自分のいいところを並べ立てないことだ。」

数学・哲学など多方面で天才的才能を発揮した人物。

ポール・ロワヤル学派に属し、ジャンセニスムを代表する著作家の一人でもある。
数学においては、「パスカルの定理」にその名を残している。
日本人にも馴染み深い「人間は考える葦である」や
「クラオパトラの鼻が短ければ―」なども 彼の有名な言葉である。

著「パンセ」など。

創造的たろうとして脇道にそれてはならない。
  通常なされていることを観察し、
    それをよりよくしようと努力すればそれでよい。

スペイン 建築家

Antoni Placid Guillem Gaudi i Cornet (アントニオ・ガウディ)
1852-1926年


「世の中に新しい創造などない、あるのはただ発見である。」

スペイン・カタルーニャ生まれ。
幼年期を自然の中で過ごし、当時の自然との触れ合いが、
自然の造形の観察と分析からデザインを導き出す設計手法に影響を与えた。

1873年から1877年の間、バルセロナで建築を学ぶ。
その後、コローニア・グエル教会堂(1898~未完成)、
グエル公園(1900~1914)、カサ・バトリョ(1904~1906)、
カサ・ミラ(1906~1910)等、20世紀を代表する建築物を創り出す。

建築物の生き物のようなデザインは、ル・コルビジェのようなシンプルで
機能的なデザインと対極の位置にあった。
それは、「建築は有機体を創造する。

それゆえ、この有機体は、大自然の法則に合致した法則をもたなければならない」
という設計コンセプトから来ていた。

1914年頃、サグラダファミリアの建設資金が底を尽き、建設中断の危機に見舞われる。
1926年、教会に行く途中に路面電車に跳ねられ、この世を去る。

享年73歳。

作品「グエル公園」「サグラダファミリア」

音楽は世界語であり、翻訳の必要がない。

そこにおいては、魂が魂に話し掛けている。

ドイツ 作曲家

Johann Sebastian Bach (ヨハン・ゼバスティアン・バッハ)
1685-1750年


「音楽は精神の中から、日常の生活の塵埃を除去する。」
「近代音楽の父」と称される人物。

モーツァルトに大きな影響を与えた。
一般に「バッハ」といえば本作曲家を指すが、バッハ一族は音楽家でありその他のバッハと
区別するために通常J.S.バッハと表記される。
また古くからバッハ家でもっとも偉大であるという意味で大バッハと呼ばれることもある。

バッハは幅広いジャンルにわたって作曲を行い、オペラ以外のあらゆる曲種を手がけた。
彼の遺した作品とそこに用いられた技法は、いわば西洋音楽のエッセンスを
凝縮したものと言うことができるだろう。

それゆえに、現代においてもなお新鮮さを失うことなく、ポップスやジャズに至るまで、
あらゆる分野の音楽に応用され、多くの人びとに刺激を与え続けている。

作品「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」
   「フルートとチェンバロのためのソナタ」
   「ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ」など。

沈黙しているとき私は充実を覚える。

口を開こうとすると、忽ち空虚を感ずる。

中国 小説家・翻訳家・思想家

Rojin (魯迅 )
1881-1936年


「夢はいいものです。そうでなかったら、お金が大事です。」

本名は周樹人(ピンイン)で、ペンネームの魯は母親の姓だといわれている。
浙江省紹興市出身。
左翼作家連盟を結成し、その指導者となった人物。

死ぬまでマルクス主義を擁護した。
4歳下の弟にやはり文学者・日本文化研究者の周作人がいる。

特に狂人日記は、文語主体の旧来の中国文学を口語主体とする点で 画期的だった
他、 被害妄想に駆られている狂人の心理を実にリアルに 描写する点においても、
わずか15頁の短編作ではあるが近代中国文学の最高傑作ともいわれ、
日本のみならず欧米諸国の中国文化研究者間では高く評価されているようである。

なお、魯迅自身が若い頃日本の仙台医専(現在の東北大学医学部)に留学した
経験があり、彼の親戚に、本物の被害妄想患者が存在し、
彼を見聞したことが、この作品を着想するヒントとなったと言われている。

著「阿Q正伝」「狂人日記」など。

人は生きねばならぬ。生きるためには戦わねばならぬ。
名は揚げねばならぬ。金はもうけねばならぬ。
命がけの勝負はしなければならぬ。

日本 小説家

Tokutomi Roka (徳冨蘆花)
1868-1927年


「子を知ること親に如かず。子を知らざることまた親に如かず。」

明治31年(1898)から国民新聞に連載した「不如帰」は明治屈指のベストセラーとなり、
それに続く「自然と人生」「思出の記」などにより小説家としての地位を確立した人物。

日清戦争を契機に、平民主義的な立場から国家主義へと蘇峰が思想的立場を
転じていく中で、1903(明治36)年には民友社を去り、自費出版した「黒潮」の巻頭 に、
兄との決別を告げる「告別の辞」を掲げる。

その後、富士山登頂中に人事不省に陥り、回復の過程で「再生」を体験。
パレスチナへの巡礼とトルストイ訪問などを経て半農生活に入り、
特異な宗教的な確信へと傾斜していった。

本人は「徳冨」(「富」ではなく「冨」)の表記にこだわり、
各種の文学事典、文学館、記念公園などは「冨」の字を採用している。

著「不如帰(ほととぎす)」「灰燼」など。

あきらめない奴には、勝てないよ。

アメリカ 野球選手

Babe Ruth (ベーブ・ルース)
1895-1948年


「顔なんてどうでもいい。顔でホームランを打つわけじゃないからな。」

アメリカ合衆国、メジャーリーグのプロ野球選手。
国民的なヒーローで、今なお根強い人気がある人物。

最初にアメリカ野球殿堂入りを果たした5人中の1人で、ホームラン50本以上の
シーズン記録を初めてたてた。

逸話として、ヤンキースタジアムに来るものの、入場料がなく外に立ち続ける
子供たちに対し、係員に札束を渡して「あの子達に入場券を買ってやれ」といった。

少にして学べば、則ち壮にして為すことあり

壮にして学べば、則ち老いて衰えず

老いて学べば、則ち死して朽ちず。

日本 武士・儒学者

Issai Sato (佐藤一斎)
1772-1859年


「春風もって人に接し、秋霜もって自ら慎む。」

学の大成者として幕府から認められ、儒学者の最高権威として崇められた人物。

門下生は6,000人と言われ、一斎から育った弟子として、
佐久間象山・渡辺崋山・横井小楠らと、幕末に活躍した人材たちが多数いる。

著「言志四録」など。

世の人は 我を何とも 言わば言え
我なす事は 我のみぞ知る。

日本 政治家

Ryouma Sakamoto (坂本龍馬)
1836-1867年


「何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、
野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから。」

貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊 (浪士結社)を結成。
大政奉還の成立に尽力した人物。

司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公とされて、小説やドラマに
度々取り上げられ生前より死後に有名になった。

逸話として、日本海海戦(日露戦争時)の直前に、龍馬が皇后の夢枕に立ち、
「日本海軍は絶対勝てます」と語ったという話がある。

この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まる事となった。

薔薇はなぜという理由もなく咲いている。


薔薇はただ咲くべく咲いている。


薔薇は自分自身を気にしない。


人が見ているかどうかも問題にしない。

ドイツ 神秘主義的宗教詩人

Angelus Silegius (アンゲルス・シレジウス)
1624-1677年


「永遠の言葉が語っていることをあなたの中で聴こうと思うならば、
まずあなたは完全に聴くことをやめなければならない。」

NO DATE

二つの個性の出会いは二つの化学物質の接触にも似ている。

何らかの反応をすれば、両方が変質してしまう。

スイス 精神科医・心理学者

Carl Gustav Jung (カール・グスタフ・ユング)
1875-1961年


「内面で向き合わなかった問題は、いずれ運命として出会うことになる。」

深層心理について研究し、分析心理学の理論を創始した人物。
当時の精神医学ではほとんど治癒することが出来なかった、
様々な精神疾患に対する療法の確立を目指した。

例えば、精神疾患者らの語るイメージに不思議と共通点がある事、
それが世界各地の神話などに一致する点が多い事を発見し、
人間の無意識の奧底には人類共通の素地(集合的無意識)が存在すると考えた。

また晩年、共時性(シンクロニシティー)の概念を提起した。

著「心理学と錬金術」「結合の神秘」など。

上下欲を同じくする者は勝つ。

中国春秋時代 武将

Sonbu (孫武)
紀元前5世紀頃


「勢とは、利に因りて、権を制するなり。」

兵家の代表的人物。
孫子とも称されており、有名な兵法書『孫子』の作者と伝えられる。

兵法書『孫子』は現代社会、特にビジネス戦略において通じるものがあり、
解説書が数多く出版されている。

著「孫子」など。

この世には、完全無欠の物も無ければ、全然無用の品も無い。


我々の親にも子にも友人にも欠点があれば、


我々の憎み嫌う人にも特長がある。

日本 農学者・教育者

Nitobe Inazou (新渡戸稲造)
1862-1933年


「われ太平洋の橋とならん」 前、五千円札の肖像として有名な人物。
国際連盟事務次長も務めていた。

札幌農学校(現在の北海道大学)の二期生として入学し、東京大学に進学した。

「太平洋のかけ橋」になりたいという理由で渡米し、ジョンズ・ホプキンス大学に 入学。
その後、札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学しドイツへ留学。

1900年にかの有名な、『武士道』を英文で書き上げ、各国語に訳され世界中で
ベストセラーとなった。

著「武士道」「農業本論」など。

一番美しい絵は寝床のなかでパイプをくゆらしながら

夢みて決して実現しない絵だ

オランダ 画家

Vincent van Gogh (フィンセント・ファン・ゴッホ)
1853-1890年


「確信を持つこと、いや確信を持っているかのように行動せよ。
そうすれば次第に本物の確信が生まれてくる。
」 ポスト印象派の画家として有名な人物。

現在において、極めて高い評価を得ているが、不遇の生涯を送った。
生きている間に売れた絵はたった1枚『赤い葡萄畑』だけであった。

弟テオドール(通称テオ)の援助によって生活をし続けた。
最後は、猟銃で自殺を図り、37歳という短い生涯を閉じた。

死後、彼の作品は高額で取引され、代表作でもある「医師ガシェの肖像」は
1990年に競売で、8250万ドル(当時のレートで約124億5000万円)で、
当時の大昭和製紙名誉会長であった齊藤了英に競り落とされた。

逸話として、ポール・ゴーギャンに「自画像の耳の形がおかしい」と言われ、
自らの左の耳朶を切り取り、女友達に送り付けた。奇行が目立ち、
自らサン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院に入院した。

一番多忙な人間が一番多くの時間をもつ。

スイス 神学者

一番多忙な人間が一番多くの時間をもつ。
1797-1847年


NO DATE

著「Life and Writings of A. Vinet」など

見るためだけの目は、世界にたいして盲目となる。

インド 宗教家

Mohandas Karamchand Gandhi (モハンダス・カラムチャンド・ガンディー)
1869-1948年


「握り拳と握手はできない。」

インド独立の父として知られている人物。

南アフリカで弁護士をする傍ら公民権運動に参加。
帰国後はインドの英国からの独立運動を指揮し、非暴力・不服従を提唱し牽引した。

その姿勢は世界中に大きな影響を与え、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、
ダライ・ラマ14世も彼の姿勢に倣ったと表明している。

1948年、狂信的なヒンドゥー原理主義者によって暗殺された。
1937年から1948年にかけて、計5回ノーベル平和賞の候補になったが、
本人が固辞したため受賞には至っていない。

インドでは、ガンディの誕生日にちなんで、毎年10月2日が国民の休日となっている。

著「The Story of My Experients with Truth」など。

人間は判断力の欠如によって結婚し、
忍耐力の欠如によって離婚し、
記憶力の欠如によって再婚する。

フランス 劇作家

Armand Salacrou (アルマン・サラクルー)
1899-1989年


「生きる、それは自分の運命を発見することである。」

NO DATE

著「アラスの見知らぬ女」「地球は丸い」「デュラン大通り」など。

戦争をやって、いがみ合っている国のリーダーを
リングの上にみな引っ張ってくるんだ。
そうしてトランクス一枚の裸で、徹底的にやらせる
という具合にいかないもんかね。

イギリス 俳優・脚本家・映画監督

Charles Spencer Chaplin (チャールズ・スペンサー・チャップリン)
1889-1977年


「本当のことを言えば、私は心の底では喜劇俳優なんかより
偉大な悲劇俳優になりたかった。」

映画の黎明期に数々の作品を創り上げた喜劇王。

アメリカのハリウッドを中心に活躍し、バスター・キートンとハロルド・ロイドと並び、
世界の三大喜劇王と呼ばれている。

監督・主演だけでなく脚本や演出も担当し、わずか数秒のシーンを納得のいくまで
何百テイクと撮り直したことなどから、業界随一の完璧主義者と呼ばれていた。

逸話として、手塚治虫は生来、「どうすれば、人々の記憶に残る漫画が描けるのですか?」
という質問に対して決まって次のように答えている。

「とにかくチャップリンの映画を観ろ。あれに全ての答えがある。」

作品「黄金狂時代」「モダン・タイムス」「独裁者」など。